「帰結主義」の忘れられた出自

「功利主義(utilitarianism)」というのは高校の倫理で聞いたことがある人も多いだろう。最も単純で一般的なヴァージョンでは、道徳的に正しい行為は最大の幸福をもたらす(見込みがある)ものであるという見方だ。道徳哲学に興味がある人なら、「帰結主義(consequentialism)」という言葉も聞いたことがあるかもしれない。大学で哲学を専攻している人なら、二つの違いを説明できるはずだ。

スタンダードな教科書的見解はこうだ(たとえばSen and Williams 1982, 3-4)。帰結主義とは、最も一般的には、行為や規則や制度などの道徳的ステータス(善い悪い、正しい正しくない、許される許されない等)はこれらが引き起こす帰結(結果)の特定の性質にのみ依存するという見方のことをいう。では「帰結の特定の性質」とはなにか。帰結主義そのものはこれに答えないが、功利主義はこの問いに対して一つの立場をとる。すなわち、ここで決定的なのは福利(welfare)が最大化されているという性質であるというのだ。ここでいう福利とは、感覚的な快楽に限らず、より一般に選好の充足(人々がそれぞれにもつ様々な欲求が満たされること)を意味する。ということで、一番単純な形では、

功利主義 = 帰結主義 + 福利主義

となる。この見解によれば、ベンサムが提唱、J・S・ミルが展開しシジウィックで一つの頂点に達した古典的功利主義は帰結主義の一種である。

…と、哲学専攻の学生に聞けば、このくらいの回答は返ってくるはずだ。加えて、「帰結主義」という術語が初めて登場したのはG・E・M・アンスコムの悪名高い1958年の論文「近代の道徳哲学(Modern Moral Philosophy)」(以下「MMP」と略記する)においてであるということも、20世紀道徳哲学史のトリビアとしてそれなりに知られていることだと思う。

しかし、どうも忘れられているか、十分に省みられていないと思われるのは、アンスコムが「帰結主義」という言葉を導入して指した見方は、今紹介した、今日「帰結主義」と呼ばれている見方とは大きく異なるという事実だ。

MMPを実際に読んでみればこれは明らかである。この論文でアンスコムは、シジウィック以降の英国の道徳哲学者たちを押し並べて「帰結主義者」と呼んでいる。この中には、G・E・ムーアやW・D・ロスを代表とする「オックスフォード客観主義者」も含まれる。ムーアやロスは、ある種の物事(たとえば知識)は、それがもたらす帰結の性質に由来する価値の他に、それに還元できないような内在的価値(intrinsic value)を持つとした。これは一見すると帰結主義を否定する傾向にある考え方だが、アンスコムによればムーアやロスもまた帰結主義者なのだ。もう一歩踏み込んで言えば、シジウィック以降の英国の道徳哲学者たちの考えには様々なものがあるが、彼らはすべてアンスコムの言う意味で帰結主義者であり、その限りで、彼らの間の違いは瑣末である、というのがMMPでの彼女の主張の一つである。

さらにいえば、アンスコムによれば帰結主義とは正に近代の—つまりシジウィック以降の—道徳哲学を特徴づけるものである。だから、たとえばJ・S・ミルは功利主義者ではあるが帰結主義者とは呼べないということになる。非帰結主義的功利主義というのは、上述した帰結主義の今日の通説的理解ではありえない立場だ。

それでは、アンスコムは「帰結主義」という言葉でどのような見方を意味しているのか。なぜその見方が「帰結」主義と呼ばれるのか。なぜシジウィック以降の英国の道徳哲学者たちは総じて帰結主義ということになり、ミルを初めとするシジウィックより前の功利主義は帰結主義ではないということになるのか。MMPを真剣に読むなら、このような問いを考えなくてはいけない。

困ったことに、アンスコムは自身が導入した「帰結主義」を明示的に定義していない。彼女が言うのは、ミルとムーアの間、シジウィックにおいてなにか決定的な転換点があり、それが古典的功利主義と帰結主義を区別する鍵だということである。そしてこの転換点とはシジウィックによる意図概念の定義であるという。アンスコムによれば、この定義では、行為の帰結には、その行為主体が意図したものと、意図してはいないが予見していたものとがあるという区別がつけられない。このことが、シジウィック以降の英国の道徳哲学者たちに総じて見られる特徴だという。

しかし、これだけ言われても、なぜこの意図概念に関する見方が特別に「帰結主義」と呼ばれるのか、そしてなぜこの見方が近代の哲学者間の他の相違を瑣末なものにするほど倫理的に重要なのか、すぐにはわからない。これはアンスコムを読む人なら頻繁に経験するだろう難しさだ。

このポストではここの部分の思考の流れに関して込み入った解説は一切省くが、僕の考えでは、最終的にはアンスコムのいう帰結主義は次のように特徴づけできる。すなわち、帰結主義とは、ある行為がどのような種類の行為であるかということが、その行為の倫理的ステータスに決定的影響を及ぼすことはないとする見方のことである。この意味での帰結主義によれば、どんな行為でも、それがこれこれこういう種類の行為だから善いとか悪いとかいうことはできない。たとえばある行為が拷問であるということは、帰結主義的にはそれを避ける理由にはまったくならない。その行為が特定の状況下で導く(見込みのある)帰結の性質によっては、その行為を避ける理由はまったくないどころか、それをすべき決定的理由があるということもありえる。対して、アンスコムの考えでは、ある行為が拷問であるということはそれ自体、決定的ではないにせよ、その行為を避ける理由である。彼女によれば、拷問という種類の行為は、まさにそういう種類の行為として、なんらかの意味で必然的に不正(unjust)なのである。

アンスコムがシジウィックの意図概念に注目するのは次の理由からである。ある行為がどのような種類の行為であるかは、彼女の見方では、その行為がどのように記述されるかに依存する。そして、ある行為に正しく当てはまる複数の記述うちどれがその行為を倫理的に評価するときに適切なものであるかは、ひとつには行為主体がどの記述のもとでその行為を意図したかに左右される。ある行為の倫理的ステータスと、その行為が属する種類と、そしてその行為がどのような記述の下で意図されているかとの関係に関する問題意識が、シジウィック以降の帰結主義では完全に欠けているというのがアンスコムの一つの主張だと思う。

こう考えると、J・S・ミルを非帰結主義者としてみることが可能になってくる。というのも、ミルは、行為の種類がその種類に属する個別の行為の倫理的ステータスに影響を及ぼすということを肯定したとも解釈できるからだ(Diamond 1997がこのような解釈を敷衍している)。ミルの致命的な欠点は、アンスコムによれば、ある行為がどのような種類の行為かということがその行為の記述によって左右されるということに気がつかなかったことである。ミルは「愚か(stupid)」だが、シジウィック以降の帰結主義者たちは必然的に「浅い(shallow)」とアンスコムがそれぞれ形容したのはこのためだろう。

それで、これはほとんど根拠のない憶測にすぎないが、アンスコムは「帰結主義」という言葉に軽蔑的なニュアンスを込めていたのではないかと僕は思う。アンスコムのメッセージの一つは、シジウィック以降の近代英国の道徳哲学は実に軽薄で取るに足らない、つまり「inconsequential」であるということだから、「帰結主義(consequentialism)」というラベルは彼女のあてこすりだったのではないか。一種のジョークだったかもしれない。しかしそうだったとしたら、この辛辣な皮肉は今日ではほとんど理解されていない。

「帰結主義」は、MMPにおける出自と切り離されて、アンスコムが意図した概念とは別の概念を指す表現になってしまった。もちろん、今標準的になっている意味での帰結主義も倫理を考える上で重要な概念であることは間違いないし、もともとの意味とは違う意味で言葉が使われていること自体は必ずしも悪いことではない。しかし、MMPにおけるアンスコムの帰結主義批判が、今日普通に理解されるような帰結主義批判とはかなり様相を異にするもので、いろいろな意味でより根本的な問題をついているかもしれないということは、気に留めておくべきだろう。

「古典」と呼ばれる仕事にはよく見られる現象だが、MMPは被引用回数に比べて精読されることが少ない論文の筆頭格である。MMPに対して多くの哲学者が持っている標準的な印象は、それがヒュームやバトラーから20世紀半ばまでの道徳哲学をひとからげにして退け、明確な論拠もないぶっきらぼうで全面的な断言が連続する論文であり、結果として20世紀後半の徳倫理の再興の嚆矢となったことで歴史的意義は高いが哲学的内実には疑問が残る、くらいのものだろう。僕の考えではこの印象はほぼ完全に間違いである。MMPは規範倫理の一つのモデルとしての徳倫理を先導するものではないし、この論文で最も重要なのは、アクィナス的倫理観に裏付けられたメタ倫理的な提言であると思う。すなわち、倫理という学問が可能になるためにはまず、行為、動機、意図、快、欲求、記述、事実などといった概念群が整理されることが必要である、ということ。このメッセージはVogler 2006などで強調されているが、まだまだ十分理解されているとは言い難い。MMPはまだまだ読まれるべき論文だ。

参考文献

  • Anscombe, G. E. M. “Modern Moral Philosophy,” Philosophy 53 (1958), 1-19.
  • Diamond, Cora. “Consequentialism in Modern Moral Philosophy and in ‘Modern Moral Philosophy’,” in Human Lives: Critical Essays on Consequentialist Bioethics (David S. Oderberg and Jacqueline A Laing, eds.; Macmillan, 1997).
  • Sen, Amartia and Bernard Williams, eds. Utilitarianism and Beyond (Cambridge, 1982).
  • Vogler, Candace. “Modern Moral Philosophy Again: Isolating the Promulgation Problem,” Proceedings of the Aristotelian Society (New Series) 106 (2006), 347-64.

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