Review:『数学する身体』のしなやかな知性

『数学する身体』
著:森田真生(もりた・まさお)
新調文庫、2018年

数学に関する哲学的な思考は、しばしば、経験に依存するものごとと、経験から独立しているものごととを、はじめからきっぱりと分けてしまう。数字や記号がもつ性質と、これらの表現の内容がもつ性質とは区別されなければならないし、ある対象の論理的、数学的身分を、その対象がいかなる経緯で形成、認識されたかという視点から評価することは発生論的誤謬を犯すことである——こうした考えが当たり前に染みついている読者にとっては、本書は、学術的価値も貧しければエンタテインメントしても乏しい、筋の通っていない生半可な仕事に思えるかもしれない。

もちろん、このように、数学を、それをつくりだしたはずの人間からは決定的に乖離して、手の届かない崇高で神性なものであるかのように見てしまうことをひとつの偏見として批判するのが、本書にとどまらない森田さんの独立研究者としての活動のねらいのひとつだろう。私たちの生活は偶然と有限にみちている。対して、数学の世界は、必然と無限の領域ではないか。ある意味では、このような対比があるからこそ、人は数学的なものに強く心を惹かれるのである。それはそうだ。それでも、数学における必然性や無限は、また何らかの意味で、私たちの生を規定する偶然性と有限に根付いている。感情とか共感とか、心のやわらかな動きなど一切差し挟む余地のないような、最も厳密な数学的論証においても、その中心、あるいは背景には、きわめて感じやすく、もろく、自由な、人間のしなやかな知性、「情緒」がしっかりと鎮座している。『数学する身体』の主題は、この数学と身体との微妙で複雑な緊張関係である。

こう考えれば、エッセイとも、歴史とも、数学の専門書ともつかないスタイルも、論理と感情、必然と偶然、固いものと柔らかいもの、など、しばしば対極として考えられがちなものの間の相互依存関係を考えるという本書の主題を実践するものと捉えることができる。すこし大仰な言い方をすれば、僕の印象では、『数学する身体』が語る物語は、数学の、人間の身体における発生、そこからの逃避あるいは疎外、そこへの再接近、そして新しい和解の可能性である。このように壮大な物語が、2本の軸として据えられたアラン・チューリングと岡潔の伝記的記述に加え、数学や人工知能だけでなく認知科学や人類学や文化史のさまざまな知見の上に、最終的には森田さん自身の情熱の個人史としても読めるような形で展開する。今述べたような作品全体の構造は、確かにはじめから速いスピードで読み進めていくとつかみにくいかもしれない。この点で、鈴木健さんによる解説は秀逸で、本文の前にこれを読むと、本書全体の企図が明快になるだろう。

岡潔については僕はまったく無知だったので、森田さんが私淑するこの数学者に関する第3章「風景の始原」は特におもしろく読んだ。この章から連想したことが2点あるので、誰でも気がつくようなことかもしれないけれど、それを書き留めておく。

ひとつは、道元や芭蕉に倣って岡潔が晩年追求したある種の理想、主客や自他の分割を超越した境地に関してである。岡はこう書く。

数学の本質は、主体である法が、客体である法に関心を集め続けてやめないということである。……法に精神を統一するためには、当然自分も法になっていなければならない。(『数学する身体』p. 173に引用)

ここで「法」という言葉の使われ方がおもしろく、僕は老子の「人法地、地法天、天法道、道法自然」という言葉を思い出した。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。数学とはひとつの「道」で、人と自然は身体でつながっている。

もうひとつは、1955年、当時世界でも最も影響力を持っていた数学者のひとり、アンドレ・ヴェイユが岡と奈良の料理店で邂逅したというエピソードである。この時の議論で、「ヴェイユが岡に『数学は零から』と言うのに対して、岡が『零までが大切』と切り返す場面があったという」(p. 168)。森田さんは、この「禅問答のようなやりとり」(p. 168)を、岡が数学者の仕事を百姓のそれに喩えたことを引いて、種から実を育てることが数学者の仕事ではあるとはいえ、肝心なのは種を準備すること、数学者としてはどうしようもないことなのである、という考えをあらわすものと読んでいる。

種のイメージは含みに富んでいておもしろい。ここで僕が思いだしたのは、ニーチェの『偶像の黄昏』の「矢と警句」の一節(§14)である。

なんだって? 「何か」を探している? 自分自身を10倍に、100倍にしたい? 自分についてくる人を探している? ——むしろ「零」を探し求めたまえ!——

初めて読んだ時からかなり強烈に印象に残っている金言なのだが、その意味はと言われるといまいちよくわからなかった。ニーチェもまた種を探し求めよ、種が肝心なのだ、といっていると考えると、合点がいく。

* * *

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s