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千葉雅也 – 「失われた時を求めて」を求めて

『中央公論』2021年5月号
2021年4月10日、中央公論編集部
https://chuokoron.jp/culture/117222_3.html

将棋の指導対局で上手が、下手の棋力を理解しその人にとって丁度よくためになる難しさの展開になるように指すように、千葉雅也さんは、自分の文章の想定読者の読解力と読む時の思考プロセスをかなり細かく読んだ上で、そのギリギリのところをついて多分書いていて、その能力が異様に高いんだと思う。だから、デカルトよろしく万人共通の「明晰判明性」を求める人には、氏の文章はしばしばobscurantistに映るのだろう。

この『中央公論』の文章は、少なくとも大筋、あるいは表面的には非常に「わかりやすく」書かれている。一歩踏み込んで考えると、そこがおもしろい点の一つでもある。というのも、意志のコントロールから外れるものとしての「悪」、これの対となるものとして、知性の把捉を免れるものとしての「悪」が考えられると思うが、この悪を体現していると思われがちな、秘教性、不明瞭性、きれいに整理して理解しがたい混乱、ずれ、もつれ、ゆるさ、わからなさ、などといったものの必要性を説くためには、その説話自体が(意図的に)晦渋である必要はないということを、この文章が示しているとも読めるからだ。言っていることとやっていることとが整合性をもってかみ合うのではなく、むしろこれらの間に齟齬を発生させることで、全体としてのメッセージの一部を示している。

換言すると、この文章の物言いは、「パフォーマティヴ」と聞くとまず想像されるようなストレートものを一捻りしたものになっているのだ。悪の許容が必要だという主張を正面切ってするのはかえって逆効果になってしまう可能性があると千葉さんは2ページ目で書いているが、これと同じような理由で、わかりにくさ(知性にとっての御しがたさ)の重要性は、単にわかりにくいだけの文では伝達できないのである。

内容に関して無責任に連想したことを2点書き留める。一つは、主体の意志による制御可能範囲の外にあるものを悪とし、それが排除された世界が目指すべき楽園的な理想であるとする「キリスト教の主体観」について。これは枝葉の話題なので、簡略化して一面だけを書いているのだろうが、それにしても、主体間の身体的境界を厳格に固定し、「悪」とされる偶然性や曖昧さを排除した「楽園」的管理社会を理想とすることに粘り強く抗するような態度は、実際にはキリスト教的世界観の内部にもみられるということは、もう少し考えてみてもおもしろいかもしれない。言っているのは、哲学的神学の潮流を汲む現代欧米の宗教哲学では「Free will defence」などと呼ばれる論拠である。これはいわゆる「悪の問題」——全知全能全愛の神がいるならば、なぜ世界には悪があるのか——への部分的な応答として提示されるもので、核となる考えだけを簡約すると、問題となるような悪なしでは、人間に自由意志があるということは、少なくとも概念的以上に強い意味で不可能であるというものだ。千葉さんの議論とは文脈も基本的な思想も大きくことなるが、ここでも、超越的な力と理によって管理支配された「楽園」を追われ、さらに「原罪」とそこから帰結する悪に苦しむことになるとしてもなお、「自由意志」と特に中世以降の西洋思想で呼ばれてきたもの保持と行使は人間が人間らしくあるためには欠かせないものなのだという信念が背景に感じられる。

もう一つの点は、ここで憂慮されている管理社会化の進展、あらゆる「だらしなさ」の忌避と非難の激化が、人間の経験するところの時間に与える影響に関して。個人に対する社会の束縛的コントロールが強まることと、時間の本性と、どういう関係があるのか、すぐには明らかでないかもしれない。しかし、ここで思い出されるのは、アリストテレスの「もしも異なる今の間の違いが気づかれないならば、これらの間の時間も存在しないように思われるだろう」(『自然学』218b27)という指摘だ。そこから予測しコントロールできないものが一切ないような神の視点には、我々がその中で生きるような時間もまた存在しない。予期しえない(つまり知性によって先取的に回収することができない)物事の移ろい、決して確定することのないそのぼんやりとした方向性、そういったものの内にのみ、人間たる人間の時間の軌道は見いだされうる、ということだ。


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