ビープ、ビープ、イェー – Review:『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』
監督:濱口竜介/脚本:濱口竜介・大江崇允/原作:村上春樹
出演:西島秀俊・三浦透子・霧島れいか・岡田将生 ほか
ビターズエンド、2021年

何百年かぶりに映画館(ブルームスベリーのCURZON)に行って、『ドライブ・マイ・カー』を観た。すごくよかった。

序盤とクライマックス直前のあたり、人によっては「ハルキ節」が過剰で耐えられないと感じるかも知れないし、また原作の短編を押し広げすぎという批判もきっとあるだろう。

それでも、この物語は、非常に深く複雑な哲学、特に解釈論や精神分析に属するような問題、主題を数多く孕むもので、しかもこれらは、登場人物たちがそれぞれに生きていく中で具体的な切迫性をもって直面する、実存的で実践的な課題あるいは試練として表現されている。それだけならば、この手の作品においては珍しいことではない。『ドライブ・マイ・カー』で僕がよいと思ったのは、この映画が、自身をこうした理論的議論の素材として鑑賞者に突付けるようなことをまったくしないという点である。いわゆる「メタ」な批評的自意識が強過ぎる作品、なかでも「ほぉら、論文でこねくりまわすようなネタが私にはふんだんに含まれているぞ」とほぼ言っているかのようなものは興醒めだからだ。

『ドライブ・マイ・カー』からは、このような衒学的おしつけがましさを一切感じなかった。考えてみると、チェーホフの作品にも同様のことがいえる。愛、生、(性的)衝動、喪失、言葉、沈黙、嘘、虚構といった重大な事柄に関して、さまざまな理論的道具や枠組みを駆使して微に入り細に入り深掘りされることに耐える内容をこれらの作品が持っていることは間違いないが、物語は、その外にあるアイディアやメッセージなどの表象や象徴としてではなく、純粋に内的な文学的必然性とも呼べるようなものにしたがって構築されている。

これは、脚本あるいはプロットの妙でもあるが、キャストの演技が寄与するところも大きい。自分が、言語に関する問題を言語によって提示していること、嘘や虚構に関する問題を、嘘をついたり、告白したり、演劇という虚構に携わることによって表現しているある作品世界内のキャラクタであることを、ともすれば知ってしまっているかのような演技になってしまう危険が、多くの役にあったのではないかと思われる。演劇に携わる人の感想を聞きたいが、僕は、三浦透子の演技はよかったと思う。沈黙の中で語り、感情を失ってしまったかのような表情や振るまいによってより根源的な感情を示すという、この作品の中でも特に難しい役だったはずだ。

(まったく関係ないが、西島秀俊演じる家福悠介が、KONAMI麻雀ファイトクラブの佐々木寿人選手に似ていると思ったシーンがいくつかあった。同意してもらえる人は少ないだろうが…。)

言うまでもないことだろうが、チェーホフの使われ方は見事である。この作品自体が、『ワーニャ伯父さん』のテクストの声にならざる部分に耳を傾け、その呼びかけに応じているのだ。バフチンやレヴィナスもいいけれど、まずチェーホフの戯曲集をひっぱりだしてこなければならない。

こういうことをつらつらと考えた上で「Drive My Car」の歌詞を再見してみると、それが、『ドライブ・マイ・カー』の関心と(先取的に)呼応するような人間関係や人生観をテーマにしたものであるという、脱構築よろしくの自由な想像的読みも与えうるものであるとも思われた。遠く、間接的、そして潜在意識的にであれ、このカジュアルなビートルズの一曲から『ドライブ・マイ・カー』の根幹にあるようなイメージを着想したのだとしたら、チェーホフもすごいが村上春樹も聴取者としてすごい。いや、そんな豊かな歌詞を書いたレノン/マッカートニーがすごいのか。みんなか。


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