7月25日のBBCプロム(no. 14)でベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番ハ短調(op. 37)』の独奏を担当したヤン・リシエツキ。19世紀幕開け直後のウィーンの音楽界に旋風を巻き起こしていたベートーヴェン本人のごとく、鋭く猛々しく、同時にほとんど偏執狂的に細かい表現で、しばしばオケをひっぱるような演奏で興奮した。
その彼がアンコールで弾いたのはショパンの変ホ長調のノクターン(op. 9, no. 2)。CMや映画などテレビなどでもよく使われ、近所のピアノ教室に通う子どもでも弾くような、非常に幅広く親しまれている小品。有名過ぎるほど有名だし、本プログラムと明らかな関連があるわけでもなく、技巧的華やかさや祝祭的盛り上がりを見せるものでもないので、これをアンコールに持ってきたか、と初めは思った。
特に音の弱い部分でのタッチによる旋律への表情付けが恐ろしく繊細で、深く染み入る演奏だった。リシエツキはショパンのノクターン全集を2021年リリースしており、これもまた聴き返したい。
考えてみると、このノクターンのような曲をアンコールにすることには、最新の録音の宣伝になるということに加えて、いくつか利点がある。まず、派手でなくとも、聴衆の多くがよく知っている曲なので、高級レストランでの食事のあと、いつも飲むような温かいお茶が1服供されたような安心感がある。
また、よくある技巧的で華々しいアンコールピースだと、1曲では客が満足しないという可能性がある。それでもう1曲演奏しようものなら、丁度よいお開きのタイミングを逸する可能性がある(プロムはラジオで生中継されているのでアンコールの長さも制作側に決められているだろうが)。
これと重なる問題として、あまりにスペクタキュラーな曲をアンコールにもってくると、本プログラムよりもそればかりが印象に残ってしまうということがある。これが理由で、ホロヴィッツは自らソロピアノのために編曲した「星条旗よ永遠なれ」をアンコールで弾くのをやめたとどこかで読んだ。
昨年春、ロイヤルフェスティバルホールにユジャ・ワンのソロリサイタルを聴きに行ったが、その時ワンは9回(!)もアンコールに応え、さすがに過剰に感じた。レビューやソーシャルメディアでもそればかりが言及され、本編のプログラムの検討はその分少なかったと思う。
以上はプラグマティックな話だが、アンコールで弾かれてみると、このノクターンとベートーヴェンの協奏曲との音楽的な関連にも気がつく。
2作品は並行調関係にあるが、ベートーヴェンの協奏曲の第2楽章は、全体としてハ短調の作品としては珍しいホ長調である。これが変ホ長調でも楽典的には成立するのだろうが、色合いは相当に変わるだろう。この緩徐楽章とノクターンと、どちらもしなやかで抒情的なメロディを肝とするものではあるが、ホ長調の前者は遠くの太陽のようなじわりとする熱を、対して変ホ長調の後者は暖炉か囲炉裏で焚かれる小さな火のような温もりを、それぞれ感じさせる。
連続で演奏されたことによって際立った2者の音楽的共通点としては、フレーズ全体の勢いを整えたり力をためたりといった働きをする同音連打音型の印象的な使用があげられる。協奏曲の終楽章でもノクターンでも、メロディーの形態素として、半音上か下からターゲットの音にスラーで入る形が頻出するが、これと対比する、ぽつりぽつりと傍点を打つような同音連打にどう抑揚をつけるか、演奏者の腕の見せ所ではないか。
このように細かい緩急や強弱のニュアンスは楽譜に正確に示すことが難しく、そもそも演奏ごとに違う様になってしかるべきものともいえる。ここにもう一つ、協奏曲とノクターンの音楽的共通点がある。すなわち、即興性だ。
協奏曲第3番の独奏パートは初演時に清書が間に合わず、ベートーヴェンが空白だらけの譜面を前に演奏したという。出版譜で示されているカデンツァ部分以外にもふんだんに即興的要素が盛り込まれたかもしれない。
ショパンもまた、このノクターンを演奏する際、4小節ごとにくる1節の終結部を、自由に即興的に変えたという。ヴァリエーションのいくつかは採譜され残っている。
演奏の機会ごとに異なり、また演奏中も刻々と変化する音楽的文脈、更には演奏者と聴衆の状態やムードといった微妙で複雑なものに対する感覚を研ぎ澄ませ、いつでもその瞬間限りの音でそれに応える、そんな演奏は、美しい緊張感をまとったものになるだろう。そういう演奏ができる人、あるいはそれを1つの理想として目指す人すら、今は少ないのかもしれないが。
*
*